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卒業文集全文

「卒業に寄せて」などとかわゆく書きしたためるほど私は素直ではないことを・・・

私自身素直に悲しんでいる。

自分は十五年間生きてきて今更これまでの過失に喘いでいる。
最高の環境を与えられつつ結局何も得ていない。
しかしこれは当然のことようにも思える。いや思いたいだけである。少々穿った見方ではあるが、人生とは最初から消失と自滅の連続であるという見方ができると思う。正確に言うと、可能性を一つずつ、(いやあるいは一つを残し全てを)潰す選択を日々続けているのではないかとさえ思うのだ。より多くを失ったヒト達はご存知の通り「負け組」として世の中で軽蔑されている。損失が少なかった人や可能性の賢い取捨選択を行った人は社会で尊敬される人になるのだと思う(無論これは一例であって、社会での風評が人生ではない)。

なぜこんな発想をするかというと、私が「生まれつきの天才が世の中には存在してその人たちは先天的な絶対に超えられない優位を持っている(ので太刀打ちできないから諦めろ、という悪意をしばしば含意するのだ)」という巷の天才論を個人的に嫌っているからである。

「天才」だなんて、自分が怠慢であることの言い訳に過ぎないのではと思う。いや何も私はアフリカの恵まれない子供(この言い方も嫌いだ!)と本校の生徒に同じ結果を求めるものではない。「天才」とは環境と努力、そして遺伝子的な意味も含めた運によってのみ形成されるとしか自分には思えないのだ。無論最も大きな比重を占めるのは環境なのだが。


そう、自分がうまくいってないと感じるのはその可能性の潰し方が悪かっただけで仕方がないことだ。とも思えてくるということだ。これ以上自分に与えられた可能性を潰さないようにしていけばよい。むしろいらぬ可能性からつぶしていけばいい。これは非常に便利な過去を忘れる前向きな方法だと思う。
ではどうやって可能性を活かしていくのか。


話題は少し離れるが、気持ちが向けばなんでもできるという主張がある。いわゆる熱血。本校の生徒の一部もそれを揶揄して(実践はしていない!)楽しんでいるようだが、私はなかなか侮れないと考えている。斜に構えて物事に臨んできたのが今までの自らが失敗の一因なのかもしれないと思うのである。

そこで私は「消極的で冷静な熱血」という態度がよいと思う。
木鶏とはちょっとちがうけれど受けの心持ちである。冷静と熱血は一見矛盾しているが、目の前の欲に走る自分には冷静さと思慮が必要だし、斜に構えて無精をする自分にはやる気とモチベーションが不可欠だと思う。そこで2つをうまく組み合わせられないか・・・されど都合良く時と場合に応じて両極端を変化させることは不可能であろう。しかしながら冷静に、どういう場面で熱血を演じるかを定めてその通り演じることはできる。毎日が舞台である。自分をコントロールするには、嫌いなことを嫌々こなしたり好きなことを我慢したりする普通の抑制ではどうやらきかないようであるから、いっそのことそんな真面目な人間のキャラクターを設定し、それに乗り込めばよいと思う。最初は面白半分、周囲の反応や自分の滑稽さに笑いながら過ごす。しだいに慣れ数ヶ月すれば、そんななりたい自分の姿が習慣化して地の、真の自分になるのではないか。

周囲の人に対して良い人ぶるのも自然ではないし嫌いだと思ってきたが、実はある種の偽善は素直な善行とは違った意味で効果的で有益であるのではないか、と思えるようにもなってきた。つまり悪人がワルのままであるより善人のふりをした方がよいし、それによって悪人は善行の功徳を知るからである。仮の自分から真の自分へと性格が吸収されるのである。

これは演技なのだ、と割り切ることはよくない。逆にその役の楽しさを見いだしながら勤めればいつかそれが本当に自分のものになってしまうのだと思う。



忘れていたが、中学校の卒業文集なのでちゃんと具体論にも入る必要がありそうなので、ここよりは具体的に3年間を回想することと致す。

3年間をまとめると、「積み木壊し」をしていたのだと思う。あるいは「積み木飛ばし」とでも言おうか。
小学生のころは様々な体験の甲斐あって多くの分野で[積み木]を何段か積んだのだと思う。それは知識や経験を積み重ねたということだけではなくて、しっかりとした価値ある習慣をつけていたと思う。
それをこの3年で見事に壊してしまった気がする。まだ積み木の一段一段は残っているが、バラバラに散乱した興味と欲の果てに飛んで行ってしまい見えなくなっている。構造的な善行は影を潜めてしまい、目先の利益や欲望、表面的にすぎないような話にとらわれてしまい、継続的な中長期的観点に立ったアプローチをとる手段や意識に欠けていたと言わざるを得ない。今から思えば3年間常時、非常に暇な主婦と同じ心持ちや意識で過ごしていたのだと思う。

総じて行動力にも欠けていた。単発ですぐに終わってしまうような「決心」や「決意」はちらほら見られたが、実際は平均してみると空虚な危機感と多種多様な言い訳を振り回していたに過ぎない。自分はいつからか危機感や決意を始めとした本当は強くなければならない心の状態を数時間すら保てないような人間になってしまった。この気持ちの激しい移ろいと高速度で脳から消えて行く記憶、それも今なすべきことに関する記憶が忘却されてしまうことに関しては如何にすれば解決するかまだ見当がつかない。

そして自分にとっては「達成しえぬ具体的な目標」が現れたことも数々の怠惰の大きな要因となったと考えられる。小学生の頃は実際に立てた具体的な数値化可能大目標は二、三を除き全て達成できた。その頃の自分には自分の実力に見合った計画性が微かなりとも存在していた気がするし、実際達成のための計算も上手くいっていたし破綻確実な無理計画は立てなかった。
確かにその頃の方が頭のスペックが上だったとも言えるし、そもそもまともにテストやコンクールその他を受ける機会が限定される小学生にとってはさして難しいことではないかもしれない。しかし自分の状態からは達成困難であり柔軟性が無いような計画を乱立したあげく悉く失敗するようになったのはここ数年のことである。

この問題は自己管理についても言える。小学生のころは曲がりなりにも概して健康であったのに、中学に入ると自己管理が崩壊し、就寝時間の感覚的上限が消えていってしまった。その結果今では、重要行事の前後に時に数ヶ月にわたって風邪を長引かせ、生活行動レベルを常時大幅に制限している。根本には義務と予定、自由行動の混同であり、後先を考えない行動の結果といわざるをえない。


中学校に進むということは同時にマルチタスク化が進むことも意味すると思う。一部の人は習い事や塾の継続を拒否する強い決断力をもって小学生のときより努力すべき対象を減らしたのであるが、少なくとも私にとってはマルチタスク化を意味した。厄介なのは入学当初は暇なことである。私はここで後先も考えず兼部という愚かな選択をする。自分の能力に見合っていないのだ。多くの人にとって兼部はゲームセンターその他時間の浪費から時間的な意味でクラウドアウトさせるよい材料なのだが、私には全く効用がなかった模様である。結局電子機器による新鮮な誘惑に全く対抗できなかったのである。そうして二年が無駄になり、あと一年も同じようにメディアの力と電子機器の誘惑に何も抗えなかった。

自分は生来多方面・興味本位人間なので、知識を得る手段を発見するたびにそこで他のタスクに悪影響を及ぼしてしまった。これからは冒頭でも述べた自分の人物設定を大幅に改め、嘘の改竄された自分をうまく作って行かなければならないと思う。具体的には、興味の幅を大幅に削り、遊びには全く無関心で言い訳を嫌う自分を創造する必要に迫られていると思う。もとの自分に戻るのは結果が出て波に乗ってからで遅くない。無駄知識体質の人間は恐らく大人になってからも手持ちの知識を増やせるだろうから。いや、むしろこの遊び性で言い訳体質の自分はそのまま演技の中で消えてしまった方がよいのではないかとさえ思う。


自分に今最も必要なのは、反省や後悔、懺悔を次の段階に活かすため教訓化して、具体的な防止戦略、再発防止体勢の整備をする力なのである。これが全く足りなかったために、つかの間の成功体験に縋り付き、過去の失敗に全く学ばず、同様の過ちを毎日のように繰り返す人間になってしまっているのである。むしろ成功体験からその本質を引き出すところに可能性を潰さないための秘策が隠されているのかもしれない。その方法を身につけ、実践し、二度とこのような怠惰で不正直な時期を送らないようにするのが私にとっての次の三年間であると考える


最後までわざと分かりにくくしたかのような駄文しか書けないのも自分の無能のせいだ、と言い訳したいが、これもただ単に現実は能力の差ではなく、読書量の少なさ故なのである。

では             
              
                  平成二十三年一月七日  レジッロク六区
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